定番朝ごはんの代名詞といっても過言ではない、たまごごはん。
私にはたまごごはんについて、ついぞ誰にも同意を得られなかった疑問があります。
この場を借りて、大人げなく暴論を振りかざしたい。そんな記事です。
書いてること
たまごごはん、でよくね?
早速ですが、私が長年抱えている悩みを打ち明けます。。
それは
たまごかけごはんの、かけ、って何?
ということ!
この疑問を問いかけると
「たまご」を「ごはん」に「かけ」てるから、たまごごはんだよ。
と、だいたいは返されます。
そんなことは知ってる。
私だって、日本人を30余年やってる。知ってる。
私が引っ掛かってるのは、なぜ「かけ」を強調するのか、ということ。
残念ながら、私の疑問にきれいに答えてくれた人は、いまだにいません。。
「かける」ことをことさら強調する違和感
ここでいきなり質問です。
「たまご」と「ごはん」でできる料理とは何?
と問われて、たまごごはん以外のものを連想する人が、果たしてこの日本にどのくらいいるでしょうか??
たまごを混ぜても乗せても、出来上がるのはたまごごはんであるはずです。
いきなり小難しいことを言いますが。
言葉とは、人と人とが情報を伝達するための記号だと言えます。
世に言う「たまごかけごはん」とは、私の父祖代々から伝わる「たまごごはん」と比較すると「かけ」という表現が含まれます。
そこには何等かの意図があってしかるべきだと思うのです。
言葉は一方で、言わずと知れたものはあえて言わず、略された部分は時代を追うごとにすたれていく、とても曖昧なものです。
- 「今日はお日柄も良く云々」を略して「こんにちは」
- 「有難き幸せにございます」を略して「ありがとう」
- 「パーリピーポー」を略して「パリピ」
誰でも身近に感じるように、言葉はどんどん略されていきます。
パリピよりも日常に深く浸透しているはずのたまごごはんが、なぜに他人行儀に「たまごかけごはん」と略されずに呼ばれるのでしょうか。
「かけ」が残っているということは、その情報に必要性があるはずです。
「かけ」ることで、「たまごごはん」と呼ばれるモノとは違うモノになる。その可能性を内在すればこそ、「かけ」の残存は意味をなしてくるはずです。
でも、私には「かけ」の重要性が分かりません。
もうほんと、たまごごはんでよくね?
「たまご“かけじゃない”ごはん」ってどんなものがあるか?
ここまで頑なに「かけ」が呼ばれ続けているのには、もしかしたら「たまごかけごはん」と区別されるべき「たまご“かけじゃない”ごはん」があるのかもしれません。
そこで、いろんな「たまご○○ごはん」を考えてみました。
たまごまぜごはん
といたたまごをごはんに混ぜる。。。どう考えても「たまごごはん」に他なりません。。
ん?
いや、「たまご『まぜごはん』」と区切ると、たまごを入れた、混ぜご飯(炊きこみごはんなど、混ぜ込んで焚き上げたごはんもの)の雰囲気が出てきますね。。
でもやっぱり、そんな料理聞いたことありません。。
たまごのせごはん
生たまごをごはんにのせる。。。。このシチュエーションで卵をまぜたら、、結局「たまごごはん」!
日本人に生まれたからには、たまごを乗せたごはんをみたら、まぜずにはいられません。
これは致し方ないことですね。。
百歩譲って、いり卵をご飯に乗せたとしたら、、、、それはそぼろご飯ですね。
たまごのせごはんが、たまごかけごはんの比較対象になることはなさそうです。
やはり、「たまごごはん」を「たまごかけごはん」と称する必要性の裏付けになるような「その他の表現」は見つかりません。。
たまごかけごはんの「かけ」が持つ役割
たまごごはんを「たまごかけごはん」と表現したときの、「かけ」が持つ情報に何かが隠されているのかもしれません。
「かける」という言葉から連想するのは
- 液体・流動性の物質を、固形物の上に「かける」
- 器に入ったものを傾け、他のものに「かける」
この辺りでしょうか。
たまごを「かける」と表現するということは、この「たまご」がどのような状況にあるのかが見えてきます。
- たまごは、生卵である
- たまごは、とき卵にされている
- たまごは、器に入っている
かける対象物が液体の体をなしていることから、たまごの明確な状況が見て取ることができます。
これは確かに「かけ」が明示されたことで得られる情報です。
なるほど、この考え方は発見ですね。
「かけること」を表現しなければならない理由
たまごごはんを「たまごかけごはん」と、生卵の即席料理であることを明確に表現せざるを得なかった理由があるのかもしれません。
もう一度基本に立ち戻って、その理由を検討してみることにします。
たまごごはんの存在が市民権を得ていなかった
私の生い立ちでは、モノごごろ付いたころには「たまごごはん」という料理は存在し、毎日のようにそれを食べていました。
しかし、確かにそういえば、メディアを通じて「たまごごはん」を見ることはなかなか無かった気がします。
各家庭で行われていたとしても、社会的には「たまごごはん」とは日陰者の、グレーゾーンの存在であり、市民権を得ていなかったとしたら。
たまごごはんでは「イメージができない」ため、「ことさら明確に伝える必要があった」のかもしれません。。
たまごごはんの調理法が確立されていなかった
ホテルで和食系の朝食をチョイスすると、きまって生卵が出てくるものだと思っていましたが、確かにその調理方法を具体的に教えてもらったことはありません。
たまごごはんをあえて「たまごかけごはん」と表現することによって、
生卵のまま器にあけ、箸でかき混ぜとき卵とし、ごはんにかけて食す、
ということが、明確化されます。
今さら、食事の作法を解説されることはないにしても、表現をいちいち付け足すことだけで、その調理法までをも表現してしまうのは、確かにスマートなやり方なのかもしれません。
TKG、としたかった
たまごごはん、では略語になりません。TGでは、たまごごはん感は得られません。。
そもそも、こういったアルファベット3字の略は、TLA(three-letter acronym:三文字頭字語)といって、特に欧米で長い文章を略するために用いられる表現技法です。
日本でもなじみの深いところでは
- LTE(Long Term Evolution:長期的進化、携帯電話の通信技術)
- USA(The United States of America:アメリカ合衆国)
- ELT(Every Little Thing:日本のアーティスト/English Language Teacher/英語教師)
- RPG(Role-Playing Game:キャラクターの役割にそったテレビゲーム。ロープレ)
などなど、ありますよね。
確かにTLAにするとかっこよく聞こえます。
TKGと、3字のアクロニムを維持するためには「かけ」を残す必要があった、というわけですね。
たまごかけごはんは、フルネーム。
ここまでいろんな角度から「たまごごはん」と「たまごかけごはん」の違い、その用法を検討してきましたが、私の中で一つの結論に至りました。
「たまごかけごはん」とは「たまごごはん」のフルネームである
ということ。
普段は「たまごごはん」で事足りるが、正式な場であったり、丁寧にたまごごはんの特性を説明したいときに殊更、たまごかけごはん、と表現されるようです。
レオナルド・ウィルヘルム・ディカプリオ、坂本龍馬直柔、みたいなもんですかね。
まとめ
「たまご“かけ”ごはん」の台頭には、私個人としてはメディアの存在が大きく関与していると考えています。
テレビで「たまごかけごはん」という表現をしてるから、「たまごかけごはん」とフルネームで呼ぶことが正式と感じるようになり、いつしか「たまごかけごはん」ということが常識(だと感じるように)なった、と推測します。
声が大きいものの主張が、やがて世間の通説になってしまう、悲しい現実ですね。。
そんな切ない思いをしながら、毎朝たまごごはんを食べています。